先日、会津若松を訪れた。
白虎隊が最後に自刃を決行した飯盛山、会津若松城(鶴ヶ城)など史跡などを見る。
幕末時の会津藩主松平容保は28歳で京都守護職に命じられる。容保は、幕府の命に、「顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信はない。その上わが城は東北に僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命と藩祖の遺訓を重んじて浅才を忘れ大任に当たれば、万一の過失のあった場合累は宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死を持ってしても償いがたい」と固辞したが、幕府重臣などの再三の要請、特に会津藩家訓を持ち出し「土津公ならばお受けしただろう」と言い詰めよられ辞する言葉もなくなり奉命を決心したという。
そのあとは幕末の戊辰戦争に突入し、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となり、鶴ヶ城落城までに至るのである。白虎隊の悲劇もその過程で生じたものである。数年前に幕末会津藩を背景としたNHKの大河ドラマ「八重の桜」の場面々を思い出しながら見学してました。
現代においても、社会のなかで「立場」にたたされた人間の役割と個人の幸福のようなものをどう調和するかは多かれ少なかれあるものですが、圧倒的な歴史の力の前には抵いようもなく翻弄されてしまいますね。