昨日NHKの「司馬遼太郎からの問いかけ」をみていると、出席者の1人が次のように述べていた。
司馬遼太郎が好んで取り上げる、織田信長、高杉晋作、坂本龍馬、吉田松陰、西郷隆盛などなどは自分の志を変えないで生きてきた。
しかし、彼らは志を全うすることなく若くして不慮の死をとげている。
どうだろう、彼らが長寿であったとして最後まで俗物にならず、志を貫くことができただろうか。不慮の死が、志に対する真直ぐな人物として造形され魅力的になっているのではないか。
それが若い読者をひきつけ、また中高年の読者にとって(自分にない)憧れとなるのではないか、というのである。
このブログでも(2015.4.22「私は私でいられるであろうか」)次のように述べたことがあります。『自分が(こうありたい)自分でいること、は想像以上に難しいことです。妥協する、容易い方に流される、圧力に屈する、誘惑に負ける、情にほだされる、・・・「今回はまあいいか」となる自分がやっぱりあるのですね。松陰先生とは次元がちがう低レベルのはなしですが。』
長生きするとは、自分との戦いでもあるのでしょう。