原先生のこと

 学生時代にお世話になった原先生のことを記載しました。原先生からは多くのことを学ばせていただき、自身の人格形成上も大きな影響をうけました。
 初めて原先生にお会いしたとき、先生は60才台の半ばであったことを改めて思いかえすと、今の自分自身がずいぶん疲れているような気もします。

原先生のこと                          2006/3/21(2012/9/14加筆)

 大学の合格発表のあと、入学についてのガイダンスなどがあり、その際、新入生のための下宿案内がありました。大きな教室の教壇にファイルが数冊おいてあり、簡単な下宿紹介が挟んでありました。
 そのファイルをみると、すでに、大学の周辺の下宿は大半が満室であり、困ったなと思いながら、ページをくっていくと、最後のページに、大岩臨済寺長学堂、8畳5000円という案内がありました。お寺というのも面白そうだし、長学堂という名前にもなにか惹かれるものがあり、大学からバスを乗り継いで訪ねてみました。
 賤機山を背にした臨済寺の境内の一画に、お墓と池に囲まれるように、長学堂はあり、前触れなく訪ねると、おばあさんのような人がでてきたので、事情を説明しました。「おや、下宿かね。やめといた方がいいよ、ここからは学校まで遠くて、通うのが大変だから。3年生になってから、またおいで。」といわれたのでした。それが、原先生との最初の出会いでした。いまから32年前のことです。
 あとになって知ったことですが、臨済寺は徳川家康が幼少のころ今川氏に人質とされたときの住まい(幽閉されていた)としており、その縁あってか江戸幕府から手厚い庇護を受け、また歴代今川当主の位牌が安置されているという格式の高い寺院です。
 長学堂に住んでみての臨済寺は、臨済宗の修行道場として多くの雲水が寝起きしており、いつも張りつめたような空気がありました。

 結局、長学堂にお世話になることになり、私の大学生活がスタートしました。大岩から大学まで最初のうちこそバスを乗り継いで通い始めましたが、バスの便がわるく、すぐに自転車に切り替えました。それでも学校まで40~50分ほどかかりました。もっとも1年もすると、どこに行くのも自転車が当たり前になり、通学ぐらいは苦にならなくなりました。
 長学堂は1階に原先生が住まわれて、2階が下宿になっていました。2階は襖と障子に区切られた6室があるだけで、下宿人は、私と後に南禅寺の住職になられた方が1人いらっしゃるだけでした。
 原先生がどういうわけで、臨済寺の長学堂に住まわれることになったのか、臨済寺とどういう関係にあったのかは、定かでありませんが、長学堂に住まわれて、寺の庭掃除や雲水の世話をしながら、お茶の先生をされているということが判りました。若い雲水はなにかしら時間をみつけては、長学堂の原先生のところにきて、油をうったり、お喋りにきたりしていました。
 お茶の生徒さんや、お寺の雲水が、「原先生、原先生」と呼ぶのをまねて、いつしか、私も自然と原先生と呼ぶようになりました。
 また、私が山岳部に入部した旨を告げると、喜ばれて、自分の出身が伊那であること、師範学校の時に、木曽駒や甲斐駒に何度も登ったことのあることなどをおっしゃられて、私が山に行くときは、いつも、「気をつけて、無理をするんじゃないよ。」と送り出していただきました。
 1年生の時に、富士山の雪上トレで、肺炎となり、日赤病院に半月入院したときは、毎日のように見舞っていただき、洗濯などのお世話になりました。
 時折、お茶のお稽古の際に、ご馳走になることもあり、お稽古の生徒さんとも顔なじみとなり、やがて、お手前の真似事もさせていただくようにもなりました。今の弟子さんが女性ばかりなので、春田君がいてくれると、自分も男手前の稽古ができて助かるよといわれ、月謝のようなものも払わず、気のむいたときにお稽古に入らせて頂くといった、横着な弟子でした。今になって思うと、あのときしっかりお点前を習っておけばよかったとおもいます。月謝代わりという訳ではないのですが、何度か山(転付峠)の水をポリタンクに一杯にしてもってかえって、喜んで頂いたこともありました。
 下宿生活に慣れるにつれ、お稽古以外のときも、1階の原先生の居間でお菓子や、食事を頂戴したり、見たい番組があるときはTVをみせてもらったり、また、居間の奥の部屋が夏涼しいので、お茶を頂戴したあと新聞を読んだりして、自然と自宅にいるような交流となっていったのです。

 原先生は、生涯独身をつらぬかれました。自分自身に厳しく、先生から弱音や愚痴のようなことを聞くことは一度もありませんでした。今思い返すと、毎日、質素な生活をされていました。朝夕に庭の草木に水をやり、お寺の庭で草引きをしたり、雲水の世話をしたりの日常です。
 ご自身も月に一度は京都の堀之内宗匠までお茶のお稽古に通われ、その足で実家にも戻られていました。また、臨済寺の雲水に混じって、毎月座禅をされておられました。
結局、私は静岡を離れるまで、長学堂でお世話になったのです。

 その後、大阪にもどって、私は学生時代に目指していた公認会計士となったのですが、原先生に合格のお知らせに静岡までいくと、自分のことのように喜んでいただきました。その後も先生が京都に来られた時に一緒に食事をしたり、先生とお茶のお弟子さんとで富士山に登ったり、私の結婚式に来賓に来ていただき、暖かいスピーチも頂戴いたしました。また最初の子供ができたときは、見てもらいに静岡にもいきました。
 そういったことの後、先生から、一通の手紙を頂きました。それには、「自分も年老いてきて、いつまでもお寺の世話になるわけにいかないから、田舎にもどる。まだ実弟がいるので、庭に家を建ててもらって、そこで暮らしていく。」という旨の文面でした。

 その後、原先生とは手紙での交流がつづきました。そういえば、先生とは、電話で連絡をすることはほとんどなく、いつも手紙でした。日常生活のあれこれなどさりげない文面ですが、何度か読み返すうちに、励まされるような気持ちになる不思議なお手紙でした。
 女房が、何度か先生が元気なうちに会いに行こうというのですが、何故かいく気になれませんでした。先生が本当に年老いておられて、それを真の当たりにするのが、怖いような気がしていたのかもしれません。
 ただ、一昨年(平成16年)には、なぜか、急に会っておこうと思い、7月の日曜日を利用して、伊那までいきました。何十年かぶりにお会いした先生は、少し小さくなっておられましたが、かくしゃくとされ昔のままの先生でした。帰る段になって「いいものを見せてあげる。」といわれて、出されたのは、私が長学堂を離れるときに、良かったら使ってくださいといって、置いてきたコーヒカップのセットでした。なつかしいというより、深く感謝したいような気持ちでいっぱいになりました。女房と「先生お元気でよかった。」といいながら、帰路につきました。

 原先生の訃報に接したのは、それから約半年後のことです。96歳でした。

(追記)
 以上は紫岳ニュースNO56(2006.4.30)に投稿した文章に一部加筆したものです。
 私の下宿に遊びにきていた後輩がその後長学堂に入り、彼は大学卒業後出家して、僧侶となりました。
昨年(平成23年)、彼と会って話す機会があり聞いた話では、原先生の葬儀には、臨済寺から住職はじめ多数の僧侶がきて運営に当たったそうです。その臨済寺の住職は「春田さんがいたころ原先生のことによく遊びに来ていた雲水ですよ」ということでした。

投稿者:春田 健2014年3月26日