村上春樹

 志賀直哉の「ナイルの水の一滴」に相似した表現をしていると紹介されていたのが、村上春樹のエッセイだ。

 文藝春秋6月号を購入して村上春樹の「猫を棄てる」を読む。題名の「猫を棄てる」とは、このエッセイの冒頭に書かれた小学校の低学年当時に父と一緒に猫を捨てに行ったが、帰宅すると棄てたはずの猫がなぜか先に自宅に戻っていたという愉快なエピソードです。
 2008年に90歳で他界した父親の人生をつづりながら、自らの父親への思いを語っています。戦争という不幸な時代に押し流されながら、懸命に生きてきた父親、また偶然が織り成す人の一生の不思議さをしみじみと感じさせられる一文です。

 作家となって以降、父との関係は屈折し、二十年以上断絶していたが、亡くなる少し前に「和解のようなこと」を行ったとありました。この父との和解のはなしのあとに、冒頭のエピソードにふれ、「何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。・・そんなひとつひとつのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたち作ってきたのだ。」という。

 そして、このエッセイは下記の文章で締めくくられています。
「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさり吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくにしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と」

投稿者:春田 健2019年6月7日