今月の日本経済新聞「私の履歴書」は興福寺貫首の多川俊英氏が執筆している。連載当初から、奈良公園と一体化した興福寺の境内整備に尽力をしたとの記載があるが、そういわれてみると、公園との区切となっている塀や大門もなく、どこからが公園でどこからが境内地なのかよくわからない。
春日大社は歩いているうちに神社仏閣の趣をかもちだしているし、東大寺も南大門をくぐるとそこからは宗教施設になるという印象に対して、興福寺は奈良駅からも近く公園との境がないため宗教空間という匂いがない。
それはともかく、今朝の記事に阿修羅像について触れている。
「像高153.4センチ。3つの顔、6本の腕。かつて西金堂に安置されていた八部衆の中の1躰である。阿修羅はインド神話では好戦的な悪神だが、この像は忿怒ではなく愁いを帯びた表情の美少年だ。華奢で女性的。清らかさと敬虔さを感じさせる。何度も火災に遭ったが、脱活乾漆像で中が空洞だから重さが15キロ弱。僧侶が抱えて持ち出して難を逃れた。奇跡の像でもある。」
たしかに、以前拝観した折に、「阿修羅」という言葉とはうらはらに、その端正な顔と細い腕が伸びた調和された姿に引きこまれそうな思いをしたことを覚えています。
1000年以上もまえに創作された像が、これまで何万人かいや何百万人かの人の眼にふれ生き続けていることに思い至り、改めて歴史の重みを感じました。
(2018.11.28追記)
今日の「私の履歴書」では、「寺宝は長い年月にわたって、人の手から手へ受け継がれて今日ただ今、私たちの手許にある。伝世してきた宝物の欠損は先人にも次代の人々にも申し訳ない。」とありました。本当にそうだな、未来の何百万人に対しても引き継ぐ責任があるのだ、その責任感の連鎖に改めて頭が下がりました。
(2018.12.5追記)
今日の朝日新聞にAIが解く仏の顔として、奈良大学が200体以上の仏像の表情をAIを使って分析したところ、多くの仏像が特定の感情のない「中立」であったのに対して、興福寺阿修羅像(734年)については、正面右が「悲しみ」、左側が「喜び」の表情が認められた。また、日経新聞にも(同じ調査から)推定で23歳と判定したとある。
そうか、23歳の青年で人間の表情にも似た仏様なんだ、なんか納得しました。